私の競馬考1
私の競馬考1
1995年ごろから本格的に競馬をやりだした それ以前も 同僚の付き合いで
年に1~2度やったぐらいで パチンコにどっぷり浸かっていた
1995年から歌舞伎町も10万円以上出す 台が減って来ていた パチスロは 台湾のマフィアも
多くなり 店自体も減らす傾向があった
歌舞伎町界隈はトップスやゴールデン街近くの店 新宿3丁目はモナコという名の店だった
気がする この辺りが 私が良く打つ店だった ソープが立ち並ぶ向かいにも店があった
この店でも パチスロで10万越えをした
1995年を境に 私は本格的に 新宿ウインズに乗り込んだ 新宿は1000円単位でしか
馬券を売らなかった 新聞通りに買えば
10回に一回ほど500円前後の馬連が当たるだけであり 馬のタイムや競争成績では
たまにしか当たらないのがわかった 血統主義もあるが いまいち嘘くさかった
毎回1万えんが 紙屑のように消えていく そして頭にきて 新聞を広げ 手のひらで
来る馬を見つけ出そうとした これが我が競馬道の始まりであった…
年に1~2度やったぐらいで パチンコにどっぷり浸かっていた
1995年から歌舞伎町も10万円以上出す 台が減って来ていた パチスロは 台湾のマフィアも
多くなり 店自体も減らす傾向があった
歌舞伎町界隈はトップスやゴールデン街近くの店 新宿3丁目はモナコという名の店だった
気がする この辺りが 私が良く打つ店だった ソープが立ち並ぶ向かいにも店があった
この店でも パチスロで10万越えをした
1995年を境に 私は本格的に 新宿ウインズに乗り込んだ 新宿は1000円単位でしか
馬券を売らなかった 新聞通りに買えば
10回に一回ほど500円前後の馬連が当たるだけであり 馬のタイムや競争成績では
たまにしか当たらないのがわかった 血統主義もあるが いまいち嘘くさかった
毎回1万えんが 紙屑のように消えていく そして頭にきて 新聞を広げ 手のひらで
来る馬を見つけ出そうとした これが我が競馬道の始まりであった…
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